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ダマスコの聖ヨハネ証聖者  St. Joannes Damascenus      記念日 12月 4日


 シリアの都市ダマスコは、先に大使徒聖パウロが主イエズスの御出現を蒙り、奇跡的に改心した所として有名であるが8世紀に至り又偉大なる教父の聖ヨハネが出て、更にその名を高らしめた。この聖人が如何に博学高徳で、一世に重きを成していたかは、歴史家達が彼を呼ぶに、ダマスコ市を巡り流れるクリソロアス(黄金の河)の名称を以てし、十分の尊敬を示している所からも察せられるのである。

 聖ヨハネは7世紀の末ダマスコ府の総督にして熱心な公教信者なる人の子と生まれた。彼とその弟との教育に当たったのは、かつてサラセン人等に捕虜として引かれ、後釈放されたコスマスというイタリア人の一修士であったが、二少年の無垢の心に一般の学問は勿論、神学の知識も深く深く刻みつけた。後年ヨハネがその優れた学才を十分に発揮する事が出来たのは、全くこの学徳並び備わった良師の薫陶の賜物と言って差し支えあるまい。

 さてヨハネは成人後暫く父の後を継いでダマスコ市を治めていたが、その優れた才知を認められて間もなく回教王の顧問に抜擢された。
 所がそのころ東方諸国に於いては、聖像聖画や十字架の尊敬をことごとく偶像崇拝の迷信なりとして排斥する過激な異端が勢力を得東ローマ皇帝までもこれに荷担して公教信者に猛烈な迫害を加えるに至ったから、ヨハネは正しき信仰の危急存亡はこの時とばかり奮然蹶起し、その該博深遠な神学上のうんちくを傾けて三つの弁駁書を公にし、十字架並びに聖像聖画を尊敬する事の迷信に非ざる理由を堂々天下に説明して、教敵の誤謬を遺憾なく論破した。為にその迫害を蒙りつつある聖教信徒にして殉教の勇気を鼓舞された者や、去就に迷える人々にして正道を見いだした者はどれほどあったか解らない。

 然るに聖像破壊論者なる東ローマ皇帝レオは、聖人に味方の論陣を打ち破られた事をいたく怨み、卑劣にも彼に就いての讒言を回教王に書き送ったので、教王は大いに怒りヨハネを召して近衛兵にその右手を肘の所から切り落とさせた。しかし伝説によれば聖母はその夜彼が眠っている間に奇跡を行って切られた手を元通り継ぎ合わせて下さったとの事である。その後ヨハネは世間を退いてエルサレムに近い一修院に入り司祭となったが護教方面に心血を注ぎ、使徒時代からの公会議に於いて信仰箇条として決定された正説や、異端として排斥された邪説等をもれなく集め詳しく論評の筆を加え、また聖マリアに対する抑えがたい熱愛から、聖母崇敬の麗しい信心書をも著した。一言にしてつくせば彼は弁舌よりも文筆の使徒として、聖会の自由と光栄の為に奮闘したのであった。

 けれども彼は我が奮闘のもたらした結果-聖像破壊論に対する聖会の完全な勝利を見るに先立ちこの世を去らねばならなかった。即ち西暦749年エルサレムの修院の一室で安らかに瞑目し、その完徳と護教の偉大な功績に対する豊かな報酬を受けるべく天国に赴いたのである。

 彼逝きて四十年、787年二ケアに第七回目の公会議が招集せられ、彼の主張の如く聖像破壊論の異端なる事が議定されて、ダマスコの聖ヨハネの偉功は更に燦然たる光輝を放つに至った。とはいえ彼が築いた千古不滅の金字塔とも言うべきは、その敬虔な全心全霊を打ち込んだ、信仰道徳に関する数々の名著であろう。

教訓

 ダマスコの聖ヨハネは天賦の学才文才を十分に発揮して真理の擁護に尽くした。我等も各自に何等かの特別の才能を与えられている筈である。さればその長所を利用して、聖人の如く、天主の御光栄の為、応分の努力を献げるべきである。